『龍馬伝』に教わったこと(すんごい今更ですが総評なわけです)
いやあ、終わりましたね『龍馬伝』!
って、気がつけば先々月の話ですが。それが何か!?
『龍馬伝』自体、お坊ちゃんでギャーギャーわめいてばかりだった龍馬が気がつけば海援隊の長となり、気がつけば歴史の表舞台に立ち、気がつけば最終回でした。
そう。思い返せば「眠れる坊ちゃん時代」は実に長かったけど、目覚めてからの龍馬は超速だった。そんな印象が強かった『龍馬伝』。
でも龍馬が表舞台で活躍した期間は短いのだから、これはこれで正しかったのだと言えないこともない。
でも、眠れる時代をそこまで膨らませることができるなら、いっそ肝心の「公の時代」を魅せに魅せて欲しかったと言えないこともない。
「いい結果を出すにはペース配分が必要だ」。
ということを思い知らされた。2011年年頭、この言葉を胸に刻んで生きていこう。
※ちなみに『天地人』でも似たようなこと言ってるナラリーノ。コチラです。長丁場の大河、最近欠けているものの一つはペース配分?
――いや、こ、これを『龍馬伝』の総評にするわけには――(焦)ほかに、ほかに気づいたことはないだろうか。
手間はかけてましたよね!
賛否両論ありそうだけど、映画っ子のナラリーノは黒っぽい映像って好きなので「賛」のほう。自毛を使いつつの自然なカツラもよかったしさ。
制作費もかけていたように思う。セットも作り込んでいたし、その人たちへの支払い大丈夫?ってくらい豪勢な出演陣だったじゃないですか。特に男優さんは誰もが印象的だったし。
ただ、最終的に伊勢谷友介の輝きに上書きされた感があり、なんかいまいちほかの人たちを覚えていない——って、あああ、総評にならない——(焦)
「大切なものには手間もお金もかけましょう」。
「大切なことは忘れずに覚えておきましょう」。
これらも2011年・自分への戒めとして覚えておこう。
脚本はどうだっただろう、『龍馬伝』。
歴史の重要な流れ以外に書きたいことがあり過ぎて最終的に失速した感じはしたけれど、上も下もない世の中を作ろうとした人たちの青春群像を書きたいんです、その中心にいたのが坂本龍馬!というテーマは消えなかったんではなかろうか。そんなんだからこそ、脇役や脇道、とくに土佐の描き方が細やかだったんでしょう。
「主人公の生き様を、福山雅治に託して視聴者に伝えたい」という素直な熱は、最後まで作り手にあったんじゃないかな。そのへんは、女性の壮絶な覚悟を唖然とするようなラブコメにすり替えて電波にのせた『篤姫』や、そういう「義」をドラマにしたいんだったら主役は石田三成にすべきだったんでないの?という『天地人』とは違っていた。
「モノを書く時は、本質を見逃さず、常に尊敬と熱を持て」。
これ、ブログを書く時の座右の銘としよう。
そして返す返す、最終回・暗殺シーンに表示された選挙速報のテロップは残念でした。あのテロップを見た瞬間「あ、『龍馬伝』の1年間が台無しになった」って思ったもん。
「終わりよければすべてよし」。
この言葉を2011年の最後につぶやきたい——いろいろ教わったよ、『龍馬伝』。本当にありがとう。。。
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