先週、ふと気がつきました。去年の今頃は板の間でゴロ寝していたんだと。
今日6月25日はナラリーノ家の愛犬・モモちゃんがお星様になった日です。
一週間ほど危篤状態だったモモは、なぜか台所を出たところのフローリングで寝たがりました。いつもは母の足下で眠っていたのに、最後の時はそこで迎えるのだ!と言わんばかりに。
しかたないのでモモ用のお布団を台所の前に敷いて横にならせ、母と交代で添い寝して過ごしました。もうこれ以上我慢しなくていいから、苦しくない場所へ行っていいからという気持ちと、ずっとずっとそばにいてほしい気持ちが混じって、私はずっと泣いていました。
モモが死んでしまったあと、なぜモモはあんなところで寝たがったんだろうと考えました。そしてふと、こういうことかもしれないと気づいて死ぬほど泣きました。
我が家はモモが家族の一員になってから、一度内装しています。モモが最後に寝たがった場所。そこは内装以前は玄関から続く短い廊下でした。
モモが我が家にやってきた頃、短い間でしたが寝起きしていた場所です。当初、私たち家族はモモは廊下から先の部屋にはいれず、ある程度育ったら外犬にするつもりでした。
でも、甘えん坊のモモが家族の顔が見えない廊下で落ち着けるはずはなく。みんなのいるほうに来たがってキューキュー泣いていました。そのたびにそばに行き、遊び、抱いてあやして寝かしつけるのですが起きればまた泣く。しまいには仕切り板に体当たりして部屋に入ってくる。その根性に家族が折れて、とうとうモモは「部屋住まい犬」の地位を獲得したのでした。
モモが最後に寝たがった、もとは廊下だった場所。あそこはモモにとって、甘えて泣けば私たちがかならず駆け寄ってくれる場所。助けにきてくれる場所だったのではないでしょうか。
それをモモが覚えていたんじゃないか、やっぱりモモは死にそうな自分を助けてほしかったんじゃないか。その罪悪感に、私は長いこと押しつぶされそうでした。いまでもモモとの楽しい思い出よりも、死ぬ間際のモモのことばかり思い出してしまいます。
命あるものと向き合うのは、本当に難しいですね。でもなるべく、生きようとしていたころのモモの姿を思い出すようにしています。
年老いてヨロヨロと歩くようになったモモの姿は、きっと命あるものの姿そのもの。命あるものは何があっても立ち上がって歩くことを願うんだよと、小さなモモが教えてくれたような気がします。
親戚の家からモモを連れてきたときと同じ電車に、今でも母と一緒に乗ることがあります。この間、席に座ってボンヤリしていたら、ふと母が言いました。
あの日のモモは小さなカゴに入って寝てたねえ。あの日はなんでだか席が空いてなくて、カゴを抱えたまま家族みんなで扉の横に立ってたねえ。
16年もモモと一緒にいたけど、扉からこの席に移動するくらいの、あっという間の時間だった気がするよ。
自分にとってかけがえのない存在と自分の人生が重なり合う時間なんて、過ぎてみればきっとそんな短さ。
だからこそ皆さんも、大事なものと向き合える時間やその中の気づきを大切に大切にしてください。そんなことも、モモが教えてくれたんだと思います。
そしてモモたん。1日たりとも忘れた日なんてないからね。いまでも皆とモモの話をしているんだよ。
最近のコメント